昨日行ってきました。
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(11/27まで)
少し前までは「アウトサイダー・アート」と言っていたのが、最近では「アール・ブリュット」と呼ぶようになったらしいですね。
今回の企画展に関連した今号の芸術新潮「アール・ブリュットの驚くべき世界」の特集記事で、「アール・ブリュット」の日本の権威でもある小出由紀子さんとブルノ・デシャルム氏との対談でもそのことは触れられていて、
小出 (前略)「アウトサイダー・アート」という言葉にもふれておく必要がありますね。アール・ブリュットの訳語として1972年にロジャー・カーディナルが提案して以来、この言葉は英語圏ではすっかり定着しています。
ブルノ 最悪。アール・ブリュットの作品には、文化との繋がりがちゃんとある。社会的には「アウトサイダー」でも、芸術と創造においては「インサイダー」なんだよ。つくり手が社会から排除された存在であることは事実でも、彼らの個人的な人生と作品を混同すべきじゃない。重要なのはあくまでも作品そのもの。(後略)
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この言葉は、自分にとってこれまでどうしても釈然としなかった「アウトサイダー・アートへの評価のされ方」の重要な指標になると思った。
自分が「アウトサイダー・アート」という言葉と、彼らの存在を知ったのは、やはり芸術新潮の1993年12月号、「現代美術をぶっ飛ばす!病める天才たち」という特集号で、これは同時期に世田美で開催されていた「パラレル・ヴィジョン展」(行けなかったけど)の関連企画特集でした。この号でも既に小出さんは八面六臂の活躍をされていますが・・。
今ではカルト・スター扱いのヘンリー・ダーガーの絵や今回の展示でも出品されていたアドルフ・ヴェルフリー、オーギュスタン・ルサージュの作品に驚嘆しながらも、表紙に大書された「病める天才たち」という言葉や、彼らの多くが精神に何らかの異常を持っていたというその生涯のエピソードが、なんというか、とても不愉快だった。
「精神を煩った人間だからこそ、通常の人間には描けないような強迫神経症的な細密画や物理構造を無視した構図など、常識に捕らわれない絵が描ける」という見方がすごくすごく嫌で。
その頃からはっきり思っていたのは、奇人(もっと強く言えば「狂人」でもいいですが)が創作するものだから常識に捕らわれていなくて芸術的、なんていうのは傲岸不遜以外の何者でもないです。彼らの生き様とセットにしなければ成立しない「アート」は、実はアートでもなんでもなくて、それは見世物小屋と同じです。自分は見世物小屋は大好きですが、それを稼業としていたわけでも望んでいたわけでもない人の作品を「不幸な生涯」とセットにして檻に入れて、それを周りからジロジロ眺めるというのは、かなり悪趣味だと思う。
今回の「アール・ブリュット展」でも、入口でもらえる展示作品の作者ひとりひとりの生涯について解説した紙を片手に、作品とその人の性癖・精神異常の程度を書いた文章を交互に見比べながら鑑賞・・・というのはとても違和感があった。
上記のブルノ・デシャルムさんが言っている「アウトサイダー・アートという言葉は最悪」というのは、だからとてもよくわかる。「病める天才=アウトサイダーだからアート」なのではなく、これまでの価値観を覆すようなすさまじいパワーに満ちた作品を作り出す「既成の枠を超えた才能を持った人(彼らが狂人であるか孤独であるかは関係なく)によるアート」でなければ、絶対におかしい。
「彼らの個人的な人生と作品を混同すべきじゃない。重要なのはあくまでも作品そのもの。」
この言葉のおかげで、ようやく彼らの作品をフラットな気持ちで観ることができるようになりました。
・・・そうしてみると、ヘンリー・ダーガーはやっぱりすごい。彼が素人かどうかとか関係なく、メカ+美少女+グロ、手作業による大量のコピペ画法、等々・・1990年代以降今にいたるアートの潮流を完全に先取りしてる。
オーギュスタン・ルサージュはやっぱり近くで見ると圧巻。ミニアチュールとか、工芸デザインの範疇だよなぁこれは。
カレル・ハヴリチェックの作品は静謐で、構図・造形も洗練されていて、とても美しい。ビル・トレイラーの木と動物の作品も可愛さの中に潜む悪意が素敵。
あとは・・まあ好き好きもあるだろうけど、自分はピンとくるものはなかったです。日本にはWやよい(草間&でき)がいるからなあ。彼女たちに拮抗するのはなかなか難しい。