詳細については、前回の
http://www.yaf.or.jp/yma/exhibition/2007/artgallery/01_AIM/
240席のホールは40〜50人ぐらいいたかしら。
いかにも好きそうな一人客が大多数で、カップルもちらほら。
一組だけ小さい女の子を連れた親御さんがいて、最前列に座ってました。たぶん間違っちゃったんだろうな〜と思ったけど自分はどうにも出来ないし。
子供の精神に傷がついてないといいんだけど。
プログラムはとても面白く有意義なものでした。
ただ全般にフィルムの状態が悪かったのが残念。
プログラムのテーマ「Sjifting-視点の移動」に沿って、イームズの"Powers Of 10"のようにマクロ←→ミクロを自由に行き来する作品や、日常の風景を強烈にゆがめて現実にはありえない空間を描出するような作品が並んでいました。
・・・気がついたことがひとつ。
手塚治虫の"Jumping"という実験的な短編も上映されたのですが、
観ていて「この人はアニメーターとしてはそんなに才能がなかったのだなぁ」と思った。
学術的にどういう位置づけなのかはわかりませんが、少なくとも個人的には。
それで、昨日家に帰る電車の中でなんでだ?と考えてたのですが、
まず目に見える事象としては、
- 現実にはありえないジャンプ=空間を浮遊している感じがほとんど感じられない
これはどうしても宮崎大先生という浮遊感を表現する天才と比べられてしまう不幸もあるとは思いますが、そのぶんを差し引いても。ジャンプの躍動もビルを飛び越えるダイナミズムも観ていて体感できない。1回の跳躍で何メートルの距離を飛び、どこまで高く飛び上がってるのか、さっぱりわからない。
- どうしても教条主義的な部分を捨てきれない
これは「展覧会の絵」なんかでもそうなんだけど、なぜ戦争のシーンを必ず挿入しますか?特に"Jumping"ではテーマと全く関係ないし、鼻白んでしまう。
宮崎御大も教条主義的な部分はあるけれど、その前に身体的な快感原則が絶対的にあるためにそうした臭みを乗り越えてしまうのですよね。
- なんか「フルアニメ」に対するコンプレックスがあるような気がする
空に浮かぶ雲を、わざわざ線描にする必要があるのか?そのわりに草むらの葉っぱはあの描き方でいいのか?
- 漫画的であることを捨てきれない
ジャンプしているときは、アニメだなぁというのはわかるのですが、ジャンプから着地したときの絵は完全に漫画の絵なのです。止め絵になってしまってるのです。ここらへんは「映画的漫画」と「漫画映画=アニメ」との差を埋められなかった彼の限界だったのかもしれないなぁと。
・・・自分の結論としては、手塚治虫はアニメで何かを表現する、というよりも「パラパラまんがが動いて見える」という「アニメーションそのもの」への執着(というかコンプレックス)が主で、そのために動かすだけでよしとしてしまって、物体移動のリアリティとかディテールの描写とか、どうディフォルメするのか・・といった部分にはかなり無頓着だったように思います。
どう思われますか?とりあえずYouTubeに"Jumping"ありますので、貼っておきます。
http://youtube.com/watch?v=45_8ejTGAw8