いま、自宅にある家族の写真を整理してます。
うちは、父が写真好きだった事もあって、普通のご家庭よりも写真が多いだろうな・・・とは思ってたのですが、押入れの奥を探したら、出てきたのが段ボール箱5箱ぶん、数十冊のアルバム。
なんなの。いくらなんでも多すぎだよこれ。
写真写りの良いものを厳選して、あとは全部アルバムから剥がして、破り捨ててます。
確実に数百枚はゴミ袋にぶっこんだはず。
古いアルバムは、1冊1冊に写真が丁寧に貼り付けられていて、正直、捨てるのに忍びないというか躊躇してしまう気持ちはある。
両親はこのおびただしい数のアルバムを作りながら、愛情に満ちた心で「将来我が子が成長した時に、これを見て昔の自分を懐かしむのだろう」なんて思ってたのかもしれない。若い頃の自分達を現像紙に留めておきたいと思ってたのかもしれない。
そして、今。すっかり成長しきった自分が、その思い出の写真をアルバムから剥がし、破り捨ててる。
ほとんどの写真は数十年ぶりに見るものばかり。「捨てる」と決めたことで再び日の目を見ることになった写真の山。
両親は確かに若く(現在の自分より年下なわけだし)、自分や自分の兄弟の姿はあきれるほど幼く。
だけど、自分は何の感慨も感じないのです。普段はあまり考えることのない、考えないようにしている「時間の無情さ」をまざまざと見せつけられているだけ。
写真史的な価値を持つならばともかく、この世にいない人間の写真なんて、無価値ですよ。
その人が功成り名とげたというのであれば、とてもよく撮れてる数枚の写真には価値があるかもしれないけど、ピンボケで退色したポートレートなんて、どんな場合であれ全く意味が無いと思う。
自分自身の写真もほとんど捨ててます。
もし仮に将来自分が子供を持ったとして、その子が親である自分の幼少期の写真に興味を持つなんてことは有り得ない。そんなのは悲しい悲しい妄想に過ぎないのは今の自分を考えれば明白。万一興味を持ったとしても、数枚の写真があればじゅうぶん。段ボール5箱もの写真を残されても、困るだけ。ましてや、それよりも関係性が薄い人にとってはなんの思い入れもないわけで。
写真は、それが作品として成立している場合を除いて、そこに写っている画像とのリレーションシップが有効な間柄と期間にしか価値を持たない。関係性が途切れた写真は、ゴミと同じ。
だから、この作業は、将来「誰か」が行うであろう作業を前倒ししているに過ぎないわけです。
その点、デジカメはいいですね。消去は一瞬だし。