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ヘンリー・ダーガー展を観て、ますます分からなくなってきた

こないだの日曜日、原美術館で開催中のヘンリー・ダーガー展を観てきました。
スタートしてからけっこう日にちがたってるのに、まだかなり混んでた。親子連れなんかもいて、大丈夫か?とちょっと思ってしまったり。


それで、展覧会自体はとても素晴らしいものだったのですが、観ていて頭を抱えてしまった。・・・というのも、(アール・ブリュット全般そうなんですが)「アートって結局何なのよ?」という問題を目の前に突きつけられてしまうからなのですよね。
それについては何日もずっと考えていて、だけど考えれば考えるほどわけが分からなくなってきたので、とりあえず文章に書いて整理してみようと思った次第。
なので、以下は試論というか単なる覚書です。今後変更する可能性大です。



例えば。
公衆トイレの個室の壁に、裸の女性の絵がひとつ描かれていたとします。
それだけのことであれば、その絵の上手い下手は問わず、まあ単なる落書きでしょう。
(ただし、そこにサインが入っていたり、明らかに著名なアーティストの筆跡であったりすれば、また状況は変わってくるでしょうけど)
じゃあ、無数の裸の女性の絵が個室の壁面を埋め尽くしていたとしたら・・?
おそらく、そこからは尋常ではない情熱・衝動がにじみ出てくる。まともじゃない。
そこで、落書きは「単なる落書き」を超える。
じゃあその時点でそれはアート作品であるかというと、そこにはもうひとつ「発見され」「認知される」必要があると思うのです。


これは正しいかどうかすごーく不安な考えなのですが、
アート作品は作品としての価値を「発見」「認知」されることで、初めてアート作品足りうる
・・のではないかと思うのです。
例えば、ゴッホの贋作があったとします。それは「よくできた贋作」としての好事家的な価値は置いておいて、一般的にはアート作品ではないと思うのですね。
だけど、著名なゴッホ研究家が、実はその贋作はゴッホの真筆だった、と発表して、それが美術界で認められたとき、その贋作ははじめてアート作品としての価値を持つようになる。
また、例えばアフリカのどこかの都市で、おみやげ物として動物の絵が売られていたとします。その時点ではその絵はおみやげ物でしかない。
だけど、誰かがその絵に芸術としての美しさを見出したら。そして多くの人がそれに賛同したら・・。やっぱりその時点でおみやげ物はアートになる。「プリミティヴアート」なんて呼ばれたりして。
ただし、その「誰か」というのは、だれでもよいということではなく、「アートか否か」を判断するだけの能力を持っていると一般的に認識されている人が、ということです。簡単に言えばオーソリティ。


公衆トイレに話を戻します。
トイレに描かれていた落書きを誰かがアートとして発見するには、発見のポイント、落書き以上の「何か」をそこに見つけ出さなければいけない。そして、その「何か」をきちんと説明できないといけない。さらにその説明が受け入れられなければいけない。
この「発見」→「認知」のプロセスを経て、初めてトイレの落書きがアート作品になる。のではないかと。


・・・なんでトイレの落書きを例に取り上げたかというと、つまり
描いた本人がアートとして意識していないアート作品は成立する
ということで、特にアール・ブリュットにおいてこの考えはすごく重要なわけで。なにせ描いた本人はそれがアートだとは全く思ってないので。


あと、アール・ブリュットについて注意しなければならないのは、
それを描いた人がどのような人生を送ったかというのはあくまでも副次的要素でしかない
・・・ということ。
前に書いた文章の再録になりますが

その頃からはっきり思っていたのは、奇人(もっと強く言えば「狂人」でもいいですが)が創作するものだから常識に捕らわれていなくて芸術的、なんていうのは傲岸不遜以外の何者でもないです。彼らの生き様とセットにしなければ成立しない「アート」は、実はアートでもなんでもなくて、それは見世物小屋と同じです。自分は見世物小屋は大好きですが、それを稼業としていたわけでも望んでいたわけでもない人の作品を「不幸な生涯」とセットにして檻に入れて、それを周りからジロジロ眺めるというのは、かなり悪趣味だと思う。


あくまでも作品。作品が全て。
作品からにじみ出てくる圧倒的なエネルギーを感じることが全ての始まり。
そのエネルギーの根源を知るために作者の人となりを研究することは有意義ですが、通常と違う境遇であることが作品の価値を決定づけるものでは決してない。
知的障害者の描く絵が必ずしも素晴らしいとは限らない。
アール・ブリュットの作品からは、精緻に構築された作者の脳内世界がにじみでている。それが感じられる。単なる絵ではない。
アール・ブリュットの作者の中では、現実の世界とは異なる膨大な内面世界が構築されていて、絵はその表象にすぎない。
これは作為ではできない。真似しようったって無理。


それで、ヘンリー・ダーガーの作品はというと、もうすごかったです。やっぱり観てて圧倒されました。かなり大きな紙幅から物語があふれてました。
そして変な配色、実際にありえない花の模様、極彩色の妖精、執拗に描かれる同じポーズの少女・・・。
それは決して狂気ではないです。多少の混乱は見られるものの、彼の描く世界は一貫してます。主役の少女達の設定画やモンスター図鑑、はては国旗のデザインまで・・。ことこまかに世界が構築されている。


彼の作品を「変なおじさんの描いた変な絵」と捉えても別にいいんですけど、その背後にあるローダンシリーズもかくやの世界を読み取ると、ちょっとゾクっとしてしまうのです。その莫大なエネルギーに。