ハンバーガーとドーナツ3個をつめこんだ重いおなかを抱えて、歌舞伎町へ。松本人志監督作品「大日本人」を観てきました。
この映画についてはあまりに酷評ばかりなので、どんなにひどい駄作なのだろうと思っていたら、なんのことはない、普通に面白かった。
松本人志の作るコントのセオリーに忠実にのっとった佳作でした。
・・と書くと「松本人志の作るコントのセオリーとは何ぞや」と言われるでしょうけども、自分が思うに、それは「誇り高き敗北者」と「絶妙な間の悪さ」ではないかと。
「誇り高き敗北者」については、空中キャンプさんの人が(いつもながら)素晴らしい文章でまとめられています。
だからこそ、大佐藤はそのフィクションに拘泥し、手放すことができない。それが他人からは、とてもみじめに見える。ちっぽけでくだらないものにこだわっている、意固地なだけのおっさんに見えてしまう。自分にとっての宝物が、他人にはただのがらくたにしか見えないという残酷な現実。しかしわたしたちはたいてい、けっこうくだらないことを信じながら、他人にとってはどうでもいいことを胸の奥にひっそりと抱えながら、毎日を生きているものだ。
「絶妙な間の悪さ」については、「ごっつ」のコントでも多用されていた、「不必要に尺を伸ばすことによって、わざと場をぐだぐだにしてしまう」手法や、普段話している言葉の裏にある辻褄のあわなさや曖昧さを浮き彫りにする手法。「大日本人」の骨格になるインタビューシーンでの「いや・・・あ〜・・そう・・そうですね。そうですね、ちゅうか・・」というような訥々とした語り口は、松本人志コントのトレードマークみたいなもの。
オフビートな、弛緩した空間の中で思わず「ぷっ」と吹いてしまうような、ちょっと侘しい、そういう笑い。
だから松本人志が
映画というメディアでの自分のお笑い=ドキュメンタリーフィルムの退屈さ・居心地の悪さ
を選んだというのは、すごく納得できる。もともとドキュメンタリー番組のパロディ好きだったし。
・・・と、こうやって書いていると「結局は松本信者のための映画なんでしょ?」と言われるかもしれません。
その指摘は、当たりです。というか、逆に松本人志のお笑いが好きでない人や興味がなかった人がこの映画を観てつまらないと思うのはごく自然なこと。少しも問題ない。
なんかあれですよ、映画というメディアについて「大金がかかっているんだから万人に受ける普遍的な面白さがあってしかるべき」という概念って、どうなんだろう。
出資金が回収できるだけの普遍性があるかどうか、それは興行主が考えることであって、観客が考えることじゃないでしょう?
元々間口が狭い松本人志のお笑いが、映画になった途端万人向けになるというのは、それは松本人志に期待しすぎというよりは「映画」というメディアに対して期待しすぎだと思う。
そして、松本人志が(おそらく圧力はあったと思うのですが)「普遍」の方向になびいていなかったことが、自分はとても嬉しかったです。
追記:
あと、日本の場合はコメディー映画は常に「ウェルメイドな、ユーモアとペーソスにあふれた人情劇」しか受けないんですよね。
だから日本ではマルクス・ブラザーズもサボテン・ブラザーズも全然受けないし。メル・ブルックスはさらに受けないし。なのにチャップリンは素晴らしいことになってたり。
こういうのは確かにカルトな笑いですよ。いいじゃないカルトな笑い。
カルトをスノビズムと揶揄するのは簡単。だけど窮屈な考え方だなぁとは思うのですが。